古雑誌で袋を作ることを思いつき、うどん粉の糊を水でとき障子貼りの刷毛を使って、姉と二人で袋を貼った。無から有が生まれる不思議な感動があり、麻ないとは別の喜びと希望が湧いた。学校から帰ると袋の入った風呂敷を下げて駅前通りやにぎやかな商店街を一軒一軒歩き回った。ありふれた文句ではなく、考えた文句を言おうとするが、なかなか言葉にならない。これはと思う店の前を二度三度行きつ戻りつした末、駄菓子屋のやさしそうなおばちゃんが30銭で買ってくれた。「こんにちは」と言おうとしても喉が引きつれて声がでなかったが、「ふ、ふ、ふくろなんです」と絞り出すと、「袋を売りに来たのか」と中を見せるよう言われ、「いくらでもいいんです。買ってくれさえすれば」と答えた。買ってくれたおばちゃんを手をあわせて拝みたいほどうれしく、自分の手で30銭稼げたことが生きる自信と希望につながった。
袋を貼るのは簡単でも、売りさばくのは難しかった。最初のおばさんのような優しい人はめったにいない。「お父さんは」「お母さんは」とよく聞かれ、同情で買ってもらうのは望まず、「親はなくても、俺には日本一のおばあさんがついてるんだ」と、子供でもちゃんとした品物を売る商人だという気持ちで臨んだ。値ごろもおおかた分かり、売れ口のいい袋の大きさも自然にわかってきた。仕入れが一番肝心で、長屋内の廃品回収のおじさんから仕入れていたが、御殿町の新しい問屋は値段も安く、「面白いから読んでごらん」とおまけも添えてくれた。まけてもらった分は1銭でも竹筒の貯金箱に入れ、売上の半分も入れた。「いいか、いれるよ」と妹、弟、姉にも集まってもらい貯金箱を囲んだ。
「玉子屋さん」としての人気も出て、得意先も定着し評判もよかった。「お祭りまでには電気がつくかもしれない」。町の夏祭りの前日、みんなで竹筒を開けると2円11銭あった。電気屋のおじさんが軒下の電線をつないでから長く待ち、7時のサイレンを合図に電灯がついた。「とうとう電灯がついた」。目に見えない心の奥深くまで光輝く希望の電灯であった。
この町に越して半年足らずでほとんどの様子を覚え、紙袋の包みを下げて町の隅々まで歩き回った。町の西側には小高い丘があり、その下を思川が流れ、水が清く釣り人が絶えなかった。釣りは大好きで、この川は思川の名のままに好きな想いの場になっていた。大平山の彼方に、生まれ故郷玉村の空もかすかに見える。玉村の友達には「再び会えることはあるまい」と思いながら、赤城おろしに追われるように渡った利根の大橋を思い出し、自分たちは故郷を捨てたのだと感じた。
橋の向こうの商店で「おばさん袋おいてくれませんか」と売りかけの言葉もいつの間にか慣れた。「おや袋屋さんなの」と言われ、店の片隅の釣竿を糸と針付き10銭で揃え、釣竿と交換もした。同じ組の男の子に「なあんだお前袋売りか」とせせら笑われ、「ほらあのランプ長屋の子だよ」と言われる。確かにランプ長屋だが、その言葉はとげのように胸に刺さった。本当のことだから仕方ない。今に大きくなりさえしたら、悲しいことに耐えるたびに心の中の夢が大きく張り伸ばされていく。
長屋の子供は小学校を終えても高等科に進める子は少なく、特に女の子は小間使い奉公に出されるのが不思議ではなかった。姉も高等科へは行けず、奉公先の話が持ち掛けられ、まもなく留守の間に奉公に行ってしまった。姉は赤ん坊を背負ってときどき長屋に来て、飴玉を食べさせようと持ってくるが、上がらずにさっさと帰っていった。奉公先のことは何も言わなかった。
袋売りの帰りでも足を延ばせば、山葡とり、栗拾い、山芋掘り、魚釣りなど自然の贈り物が生活の足しになった。山葡は1つ1銭で売れた。麻ないで6銭稼ぐには一日めいいっぱいの仕事で、血のにじむような内職で得たお金でも支払いの段になるとあっけない。山葡は30も取れば大稼ぎだが運がないと2~3個。麻ないは一日どんなに夢中になっても7銭ほどで、わずかでも約束されている。いろいろ考えると世の中の仕組みは難しくてわかりかねた。
今も使われている鉄を曲げるためのジグ