屋台の写真

日本の祭の
風物詩屋台
現在の型を作り
全国に広めた
須田海山とは?

戦後の混乱を生き抜き、独自の発明と商いの工夫で「三寸」を含む様々な屋台道具を生み出し、全国行脚で広めた須田海山。彼の歩みは、現代に受け継がれる「屋台文化」へつながる物語である。

群馬、玉村での幼少期

1920年、須田海山(本名:須田眞吾)は群馬県佐波郡玉村町(現:群馬県佐波郡玉村町)に生まれる。1920年は第一次世界大戦後の株価大暴落で戦後恐慌に突入した時期であった。玉村の学校では勉強も誰にも負けず、遊び仲間では大将だった。昭和7(1932)年、小学校3年生の春に、長患いだった母が亡くなった。同じ年、新しい共同市場ができ、祖父が実権を握っていた青果市場では競りの声も滅多に聞かれなくなり、家族で夜逃げをした。父は「立つ鳥あとを濁すな。あとをようく掃き清めてくれ。火の始末には念を入れてくれよ。」と言い残した。

須田海山の写真
須田海山

栃木、小山の長屋

一家は栃木県下都賀郡栃木町(現:栃木県栃木市)に移り住む。父が叔母を頼って働き口を探しに東京へ行くがなんの便りもなく、1か月が過ぎたときに手紙と送金があり、その後はなんの便りもなかった。玉村を出て3か月後、母の生まれ故郷に近い栃木県下都賀郡小山町(現:栃木県小山市)に移り住む。家賃3円50銭の長屋で、街の人たちは浅草長屋と呼んだ。小学校4年生のころ、「自分達のことは自分達の力でやるんだ」と心に決める。祖父は毎日籠を背負って近くの農家へ卵の買い出しに行き、翌日に祖母がその卵を籠を背にして町の料理屋、そば屋、旅館に売りに行った。家の入口に「地玉子あります」と書いて貼ると、長屋の人たちからは「玉子屋さん」と呼ばれ、海山は「玉子屋さんの眞ちゃん」と呼ばれるようになった。

長屋の子はみな勉強ができたが、学校から帰ると家の手伝いや内職の麻ない・米研ぎに懸命で、それが当たり前だった。いくら働いても内職の麻ないだけではたかが知れているが、それをしなければ飢え死にする。学校から帰ると水まきが最初の仕事で、20杯も30杯もまいた。暗いランプの下で、夜遅くまで麻ないが続いた。

紙袋づくりと商いの基礎

古雑誌で袋を作ることを思いつき、うどん粉の糊を水でとき障子貼りの刷毛を使って、姉と二人で袋を貼った。無から有が生まれる不思議な感動があり、麻ないとは別の喜びと希望が湧いた。学校から帰ると袋の入った風呂敷を下げて駅前通りやにぎやかな商店街を一軒一軒歩き回った。ありふれた文句ではなく、考えた文句を言おうとするが、なかなか言葉にならない。これはと思う店の前を二度三度行きつ戻りつした末、駄菓子屋のやさしそうなおばちゃんが30銭で買ってくれた。「こんにちは」と言おうとしても喉が引きつれて声がでなかったが、「ふ、ふ、ふくろなんです」と絞り出すと、「袋を売りに来たのか」と中を見せるよう言われ、「いくらでもいいんです。買ってくれさえすれば」と答えた。買ってくれたおばちゃんを手をあわせて拝みたいほどうれしく、自分の手で30銭稼げたことが生きる自信と希望につながった。

袋を貼るのは簡単でも、売りさばくのは難しかった。最初のおばさんのような優しい人はめったにいない。「お父さんは」「お母さんは」とよく聞かれ、同情で買ってもらうのは望まず、「親はなくても、俺には日本一のおばあさんがついてるんだ」と、子供でもちゃんとした品物を売る商人だという気持ちで臨んだ。値ごろもおおかた分かり、売れ口のいい袋の大きさも自然にわかってきた。仕入れが一番肝心で、長屋内の廃品回収のおじさんから仕入れていたが、御殿町の新しい問屋は値段も安く、「面白いから読んでごらん」とおまけも添えてくれた。まけてもらった分は1銭でも竹筒の貯金箱に入れ、売上の半分も入れた。「いいか、いれるよ」と妹、弟、姉にも集まってもらい貯金箱を囲んだ。

「玉子屋さん」としての人気も出て、得意先も定着し評判もよかった。「お祭りまでには電気がつくかもしれない」。町の夏祭りの前日、みんなで竹筒を開けると2円11銭あった。電気屋のおじさんが軒下の電線をつないでから長く待ち、7時のサイレンを合図に電灯がついた。「とうとう電灯がついた」。目に見えない心の奥深くまで光輝く希望の電灯であった。

この町に越して半年足らずでほとんどの様子を覚え、紙袋の包みを下げて町の隅々まで歩き回った。町の西側には小高い丘があり、その下を思川が流れ、水が清く釣り人が絶えなかった。釣りは大好きで、この川は思川の名のままに好きな想いの場になっていた。大平山の彼方に、生まれ故郷玉村の空もかすかに見える。玉村の友達には「再び会えることはあるまい」と思いながら、赤城おろしに追われるように渡った利根の大橋を思い出し、自分たちは故郷を捨てたのだと感じた。

橋の向こうの商店で「おばさん袋おいてくれませんか」と売りかけの言葉もいつの間にか慣れた。「おや袋屋さんなの」と言われ、店の片隅の釣竿を糸と針付き10銭で揃え、釣竿と交換もした。同じ組の男の子に「なあんだお前袋売りか」とせせら笑われ、「ほらあのランプ長屋の子だよ」と言われる。確かにランプ長屋だが、その言葉はとげのように胸に刺さった。本当のことだから仕方ない。今に大きくなりさえしたら、悲しいことに耐えるたびに心の中の夢が大きく張り伸ばされていく。

長屋の子供は小学校を終えても高等科に進める子は少なく、特に女の子は小間使い奉公に出されるのが不思議ではなかった。姉も高等科へは行けず、奉公先の話が持ち掛けられ、まもなく留守の間に奉公に行ってしまった。姉は赤ん坊を背負ってときどき長屋に来て、飴玉を食べさせようと持ってくるが、上がらずにさっさと帰っていった。奉公先のことは何も言わなかった。

袋売りの帰りでも足を延ばせば、山葡とり、栗拾い、山芋掘り、魚釣りなど自然の贈り物が生活の足しになった。山葡は1つ1銭で売れた。麻ないで6銭稼ぐには一日めいいっぱいの仕事で、血のにじむような内職で得たお金でも支払いの段になるとあっけない。山葡は30も取れば大稼ぎだが運がないと2~3個。麻ないは一日どんなに夢中になっても7銭ほどで、わずかでも約束されている。いろいろ考えると世の中の仕組みは難しくてわかりかねた。

今も使われている鉄を曲げるためのジグ
今も使われている鉄を曲げるためのジグ

焚き木と新聞配達

2メートルほどの竹竿の先に、廃品回収のおじさんからもらった鎌を針金で縛りつけ、高い枯れ枝を払い落す道具を作った。新兵器は威力抜群で、近場一回りするだけで上質で太い枯れ枝が集められた。生木伐採でお巡りさんに警察へ連れていかれるが、なんのお咎めもなく、翌日にそのお巡りさんが新聞配達の仕事を紹介してくれた。その新聞店で配達区分は60件、1月の収入が3円60銭と聞いて小躍りして喜んだ。朝早く起きるのも楽しかった。親切なお巡りさんには申し訳ないが、家で使う焚き木拾いはやめられなかった。

約束された月々3円60銭の報酬は希望と自信の泉のようで、3円60銭の中から50銭だけ小遣いにし、手製の貯金通帳を作ってわずかな学用品を買う以外は祖母に預け、残高が増えるのを楽しみにした。小学6年の修学旅行のころには5円たまっていた。旅行費は3円60銭だったが、それが祖父の仕入れに回り、祖母の預金局でも払い戻しできなくなったため、旅行をあきらめ、旅行の日はいつもの時間に家を出て時間をつぶした。「今にみていろ」とひとりつぶやいた。

1987年2月25日毎日新聞掲載の記事
1987年2月25日毎日新聞掲載の記事

挿入詩「海山」

生まれた群馬の玉村で 母が死んだのは十の春
赤城おろしに故郷を追われ 泣いて渡った利根の橋
栃木暮らしはただ三月 落ちて流れた吹きだまり
処小山の浅草長屋 灯すランプの薄あかり
仕事を求めて東京へ 父は戻らぬ人となり
苦労くの字に老の身曲げて 玉子売りする祖母かなし
親はなくとも子は育つ 誰が言うたやそんな嘘
暗い灯影で貼る紙袋 焚木拾いも生きる知恵
修学旅行も貧ゆえに ひとり我慢の笹小舟
今に見てろと流れる雲に 眞吾十二の春浅し
                    
須田海山のスケッチ
須田海山の残したスケッチ

終戦、宇都宮と闇市

終戦、日本は負けた。組み立てるべき飛行機部品は不足だらけで、工場の機能も完全に狂っていた。退職金も目減りするばかりで思案に明け暮れる。手っ取り早いのは闇米の運び屋で、農家から米を買い入れ1日1往復東京まで運べばどうにか生きていけた。ある日、かつての工場仲間と再会し、都会人の生き方に触れる。そこで目にした「電気コンロ」に不思議な魅力を感じ、通電すると発熱して真っ赤になり、お湯も沸き魚も焼ける様子に見入った。炭や薪など燃料は手に入りにくく、誰もが欲しがる代物だったため、闇米と交換して見本1台を入手。材料を購入し1号機を20分ほどで作成、スイッチひとつで用が足りる便利さから「ようしこれでいこう」と決め、この電気コンロにしばし人生をかけることにした。家庭の電圧に耐えられずヒューズが切れるため銅線を添える闇取引となったが、1台250円で「ありがたい」と感謝される。宇都宮の闇市で売るべく従兄が引き受け、受け取ったその日の夕方に「みんな売れたよ」と札束を持ち帰り、組み立てる端から売れる日々が続いた。しかし1か月ほどで「ナショナルが卓上コンロとして電熱機を大量に売り出した」と告げられる。

夢遊病のごとく宇都宮行きの電車に乗り、二荒山神社前の番場の仲見世に向かう。従兄の店にはナショナルの電気コンロが並び、塗装も鮮やかで勝負にならないと悟る。燃料不足の今、自分のコンロも便利さは同じだと考え、「彼がだめなら自分で売ってみよう」と無謀な思いつきを実行。昭和20年10月1日、空き地で路上組立を始めると人垣ができ、「電気コンロです」と応じるうちに次々と売れ、大成功。「明日もここで売ろう」と決める。翌日以降も同様に売れたが、「どけどけ」と強面の男に詰められ、事務所へ行くことになる。

宇都宮露天商組合、川島家での盃

事務所には「宇都宮露天商組合」「川島家一家」の表示があり、赤ら顔の年寄が穏やかに問いかける。この人が後の川島家7代目、長内義助氏だった。テキ屋には独自の掟があり、一般人が勝手に店を張ることは許されないため、親分から盃をもらって身内になる必要がある。「盃を受ければ明日から商売ができる」と聞き、子分として盃を受けることにした。子分になって盃をうけるというのがどんなことか冷静に判断する余裕もなかった。翌日から正式に組員として出店が割り当てられ、後に親子の盃を交わす日が決まり、神棚の前で略式ながら厳かな式が行われる。「親、梅田守」と掲げられ、子分の名に須田眞吾もあった。盃を交わすことで、親方が白といったら白と信じ、盃を受けた10人は生涯五分の「のれん兄弟」となり、毎月20日の「月寄り」で組合費徴収と「合付」指導が行われた。「お控えなすって…」の口上仁義も覚え、「見苦しき面体お見知り置かれまして…」と名乗った。

デッチ売りの失速と「一役ネタ」探索

年が明けて昭和21年、電気コンロは大手新製品に押されて人気が失せ、「潮時か」と感じる。甘い電球の取引が半年以上続いたが途切れ、「足を洗おう」と誓ったはずがいつの間にか深みにはまり、組の人情に触れる。終戦翌年の3月、遠からず父親になる立場となり、「子供のためにも今の生活でいいのか」と考える。露天商には「純売」と、売り声や啖呵、手振りがつく「コロビ」があり、いつか独立して家店を持ちたいという熱意の人が多い。一本立ちの魅力に奮起しつつも抵抗もあった。同じく盃を受けた小山の印刷工上がりの剣持要次(要兄)は子供相手の当てくじで人気。「自分も打ち手に」と思い、街の復興につれ電気器具が売れなくなる中、東京アメ横で「一役ネタ」を探し、ゼンマイ仕掛けの二輪車に注目。浅草橋で仕入れ、最初の2〜3日は売れたが、番場の仲見世はアメ横とは違い、打ち枯れが早いと知る。「ツリマ(祭り)ネタ」だと聞き、真岡・大崎神社の秋祭りに臨む。空箱と板切れで店を作り、昼頃からの人波の中で二輪車はまずまずの売上。帰路、露天商は天候に左右される「露の命」で、一国一城の主でも浮草にも似た宿命を見つめた。続く地域の行事でも、要兄の「箱くじ」は外れても飴一本がもらえる工夫で人気だった。

「数合わせ」から「数字合わせ」へ

「おみくじ風の箱くじでなく、下足のような番号札のつかみ取り」を思いつく。手ぬぐいの布袋に番号木札を入れ、もう一組の番号札を戸板の枠に見えるように置き、番号ごとに商品を置く。大当たりも中当たりもなく、全部が当たりでインチキなしを強調するため5センチ角、1から20にする。実際に並べると見た目も賑やかで、一目を引いた。要兄も賛成し、「客が運を買うなら、売り手も運を売る」。下館の飴問屋に特大・中・細目の三通りを特注し、特大の飴は人気抜群。仲見世の外れで毎日続け、群衆が輪を作ると「インチキいかさままったくなし」と中身改めを示し、大当たりが出ると売上は倍増。木札と当たり枠の番号を合わせるところから「数合わせ」と名付け、要兄と自分のほか一家内の兄弟も各地で打ち手となった。

毎月20日の親方宅での定例後、花札「バッタ」の遊び方からヒントを得て、1〜10の木札を3枚ずつ計30枚にし、3枚の合計点で勝負する「数字合わせ」を考案。もっとも出にくい三点(1・1・1)と三十点(10・10・10)を特賞に据える。今日(当時)から数えて50年後も人気だが、発案者を知る者は少なく、種明かしは要兄以外に明かさなかった。全国に広がり、外れても賞品が当たる気持ちが守られていることが好評の理由だと考えた。

数字合わせのネタ
数字合わせのネタ

幻の名器「自在規」づくり

大崎神社のような小規模の鎮守の祭りから、町をあげた「大高市」まで、戦後は人出が途絶えた行事も多い。子どもの頃、小山の興法寺の北関東を代表する大高市での忘れがたい出来事、そのおじさんが売っていたのは、絵を拡大して描く「自在規」で、左の絵をなぞると右の画紙に大きく浮き出る様子が不思議で、「自分にもできるかもしれない」「欲しい」と思っていた記憶が蘇った。「自在規屋になりたい」との思いが閃き、少年のころの自分と同じように、あの魔力に魅せられる少年がいるに違いないと考える。戦前から戦後に祭りや盛り場を探したが再会できず、「自分でつくるより手はない」と決意。戦時中の射撃訓練の記憶からヒントを得て道が開けた。

自在規を使って絵や写真を描いてみせる「ゴトを掛ける」準備を整える。杉板素地では粗末に見えるため、薬局の顔料で二色に染め、出来栄えに手応えを得る。大量製造は専門の大工に頼むあてがあり、心配はいらなかった。

自在規打ちの名手としての出発

幻の自在規が完成し、絵心が要る真打ちの世界で、特別習ったわけではないが絵を描くのが好きで得意だった。初売りの売上は780円、実利600円。帰りの電車で同級生に「裕次郎の絵がみるみる描ける」と目撃され、彼の月給600円と同額の実利に優越感を覚えた。「香具師(ヤシ)でいい。日本一の香具師になってみせる」。この広い世界で妻と結ばれたように、数ある職業の中で自在売り・ゴト掛けが唯一の天職だと思えた。自在規は大高市向きで二番煎じがきかず、新天地を求めて盛り場から盛り場、祭りから祭りへと旅人稼業が続く。「宇都宮には自在規売りの名手がいる」と評判になったが、打ち枯れの欠点が目立ち始め、春は売れても秋には「去年買った」「おじさんみたいには描けない」とささやかれた。子供の立場に立ち、写真の魅力や備品の色墨も商品化し、説明書を印刷して付けることにし、商品名を「伸縮自在規」とした。擦筆の太細、キング画研の「キングコンテ」など付属も整え、見本の絵を新聞紙大に描いて天幕掛けいっぱいに飾った。

東海道三嶋大社の大祭と
「香具師・須田海山」誕生

「打ち枯れた田舎祭りを回るより大高市へ。全国の子供・少年に夢を売る本物香具師になりたい」として、晴れの檜舞台を東海道の三嶋大社の大祭に定めた。「ネタ付」の場所割受付には200人ほどが集まり、場所取りは家名と名誉と貫禄の戦場。親方・梅田守の名にあやかり「自在規梅田」で申し込むと、本土場・天場所で指名が利き、どよめきが起こった。新構想のハッタリの絵を天幕に飾ると、群衆よりも売人たちが驚いた。啖呵も弾み、「キングコンテ」購入者に太書き擦筆をサービスすると告げて盛況となる。

本祭りで、少年の手に握られていたのは自分の自在規ではなく、向こうにいる売り屋で買ったものだと知る。挨拶に赴くと、三尺ほどの小店に、かつて小山の興法寺で見た懐かしい西郷隆盛の絵が下がっていた。「私は隠居の身です。ゆうべじっくり拝見しました」と言うおじさんの名は、萩原雄峰。若いころ栃木にも行ったことがあり、この三嶋祭りで打ち上げるという。おじさんから静岡のネタ元を紹介され、比べてみると自作とほとんど変わらなかった。

大高市では盃事・祝事がつきもので、奉賀帳に祝い金を記し、料亭吉川で厳粛な場が設けられた。「渡世の親は川島家6代目梅田守、性は梅田名は海山」と口上を切り、「梅田組の若者に自在規ゴト師、須田海山あり」と堂々と名乗った。幻のおじさん、萩原雄峰という名に感銘を受け、親の恩は海より深く山より高しとの言葉が好きだったことから、「海と山を併せてのんで海山、夢も希望も大きくいこう」と、香具師「須田海山」が誕生した。

須田海山手書きの原稿
須田海山手書きの原稿

三寸開発、全国行脚

三嶋の料亭で誕生した須田海山は、その後自在規打ちとして日本全国を流浪した。稼ぎの中から次の目的地までの汽車銭だけを懐に残して、すべて家に送金するような厳しい旅を続けていた。昭和35年には自宅で露天商用の器具製作販売をはじめ、改良型の三寸(組立式売台)や綿菓子機、たい焼き機などを次々と開発し、屋台やのれんから調理器具まで関連するあらゆるものを扱う会社「須田商事」に育てた。この世を去った今でも、須田海山の生きた証は、日本全国の祭りの中で息づいている。

余った材料で製作された油引き
余った材料で製作された油引き

現在の須田商事

昭和32(1957)年1月、須田海山は栃木県小山市に「須田商事」を設立し、本格的に全国に向けて販売を開始する。同時に、昭和35(1960)年、香具師を廃業、露天商用品専門器具製造工場を開設。屋台を中心とした大小2,000点以上の商品を開発する。
「やきそば」や「かき氷」などののれんやプレートも、はじめはすべて須田海山の手書きだった。現在は、その形を残しつつ、一つ一つ手作りで電ノコで削ったり、印刷したりされている。
平成17年10月、タカマチ産業と商号を改め、現在代表をつとめるのは、須田海山の孫でもある3代目山嵜俊也氏。これからも屋台文化の継承と、お客様のため、社員とともに日々挑戦し続けている。

現代表3代目山嵜俊也氏
3代目の山嵜俊也氏
たいやき機の型
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のれんや幕等の製造
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手作りの看板用部品
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看板をタカマチ産業が監修したかき氷フィギュア
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